徳山下松港について

徳山下松港の歴史

大正11年(1922)2月10日、徳山港が特別輸出入港に指定され、念願であった開港を果たしました。太平洋戦争を経て日本の復興と経済成長に併せるように、昭和23年(1948)に下松港が、昭和41年(1966)に光港が編入され、令和4年(2022)2月に開港100年という大きな節目を迎えます。周南地域の発展を支えてきた港の歴史を振り返り、将来に向け発展を続ける港と「まち」、そして私たちの暮らしの繋がりを見つめてみましょう。

西暦 和暦 沿革
  江戸時代 「毛利の三白」と称される米・塩・紙の殖産政策により、海岸線一帯に開作事業が進展し、富田、徳山、下松各港は生産品の積出港として発展
1874 明治7年 徳山湾と笠戸湾を結ぶ堀川運河の完成
1884 17年 徳山に海運会社 共栄社の設立
1897 30年

徳山駅前に運輸合資会社の設立

山陽鉄道 広島-徳山間開通

1898 31年 徳山-門司を結ぶ門徳汽船の就航
1904 37年 徳山に海軍煉炭製造所が進出
1916 大正5年 徳山に鈴木亜鉛製錬所が進出(後に日本精蝋(株)が敷地を取得)
1917 6年 下松に日本汽船(株)笠戸造船所が設立
1918 7年

徳山に日本曹達工業(株)(現 (株)トクヤマ)、大阪鉄板製造(株)(現 日鉄ステンレス(株)山口製造所(周南エリア))が進出

下松に笠戸島船渠(株)(現 (株)新笠戸ドッグ)が設立

1921 10年 下松に(株)日立製作所が進出(日本汽船(株)笠戸造船所を譲受)
1922 11年

徳山港開港。港湾埋立を目的とし、徳山開港(株)の設立

徳山港が特別輸出入港に指定(石油輸入高が全国第2位)

徳山税関支署の設置

1930 昭和5年 下松に日本石油(株)(現 ENEOS(株)下松事業所)が進出
1934 9年 下松に東洋鋼鈑(株)が進出
1935 10年 新南陽に東洋曹達工業(株)(現 東ソー(株))が進出
1938 13年 海軍要港に指定され、開港閉鎖
1940 15年 光に海軍工廠が開庁
1946 21年 光に武田薬品工業(株)が進出
1948 23年 徳山下松港として開港指定(下松港が徳山港に編入)
1951 26年 重要港湾の指定。検疫港の指定。出入国港の指定
1955 30年 光に八幡製鐵(株)(現 日鉄ステンレス(株)山口製造所(光エリア))が進出
1957 32年 徳山に出光興産(株)が進出
1965 40年

特定重要港湾の指定。植物(木材)防疫港に指定

徳山に日本ゼオン(株)が進出

1966 41年 光港が徳山下松港に編入し開港
1968 43年 徳山ポートビルの設置。周防灘フェリー(株)が就航
1969 44年 山口県周南港湾管理事務所の設置
1972 47年 徳山港湾合同庁舎の設置
1991 平成3年 徳山コンテナターミナルの開設
2000 12年 光井ヨットハーバーの完成
2003 15年

周南市誕生(徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町の合併)

総合静脈物流拠点港(リサイクルポート)の指定

2005 17年 周南大橋開通
2008 20年 臨海部産業エリア形成促進港の指定
2011 23年

国際拠点港湾の指定

国際バルク戦略港湾に選定(品目:石炭)

2018 30年 徳山下松港が特定貨物輸入拠点港湾(石炭)に指定
2021 令和3年 徳山ポートビルの完成。山口県周南港湾管理事務所が移転
「五卿登陸処」碑

徳山のまちは、元和3年(1617)に毛利就隆が都濃郡を中心とした徳山藩を興し、慶安3年(1650)に館を野上に移して地名を「徳山」と改めたことに始まります。
江戸時代にはいわゆる「防長三白」と呼ばれる特産品生産が進み、内陸部では和紙が、海岸沿いでは干拓によって生まれた水田や塩田から米や塩が作られました。そうした産物の輸送のため富田・徳山・下松などの港が整備されていきました。また徳山の浜崎港は、藩主が江戸への参勤などに海路を用いる場合に利用され、幕末の文久3年(1863)には、八月十八日の政変により京都を追放された公卿5人が上陸しています。

明治時代になると汽船による瀬戸内海の海運業が盛んとなりました。徳山では明治17年(1884)に共栄社が設立され、大阪~博多間を主要航路とし最盛期には9隻を所有して航路を拡げました。
また、鉄道も次第に発達していきました。明治30年(1897)に山陽鉄道(株)の広島~徳山間が開通して徳山駅が開業しました。徳山と門司を結ぶ連絡航路が開かれ活況を呈しましたが、明治34年(1901)に鉄道が下関まで全通すると航路も廃止され、まちの活気が失われていきました。

そうした中、海軍が煉炭工場用地を探していることを知った徳山町は熱心な誘致活動を行い、明治38年(1905)に徳山海軍煉炭製造所が操業を開始しました。

日本曹達工業(株)
周南市美術博物館提供

まちは海軍煉炭製造所の進出によって活気を取り戻し、その後、大正4年(1915)に神戸の鈴木商店が亜鉛製錬所を、翌大正5年(1916)には大阪の岩井商店による大阪鐵板製造(株)徳山分工場(のちの日新製鋼(株)、現在の日鉄ステンレス(株)山口製造所(周南エリア))の建設が始まり、さらに大正7年(1918)に日本曹達工業(株)(現在の(株)トクヤマ)が創業し工場が完成しました。海軍に加えこれら民間工場が操業を始めたことで、徳山は工業都市へと変貌を遂げていきました。
下松においては、大正6年(1917)に久原房之助が広大な塩田跡地に着目した「下松大工業都市建設計画」を発表し用地取得を進めましたが、まもなくアメリカの鉄鋼輸出禁止を原因として計画が中止されました。同年、日本汽船(株)笠戸造船所(現在の(株)日立製作所笠戸事業所)が設立されましたが、機械製造に転換して機関車製造を始めました。

当時の徳山港は、海外から原材料や機材を輸入する際、港に税関がないことから門司で数日手続きをする必要があり、産業発展の妨げとなっていました。そのため徳山町は大正5年(1916)に、民間工場の進出による民需拡大を見越して「輸出入港特別指定請願書」を国へ提出しました。同じ頃、民間においても「徳山開港期成同盟会」が結成され運動を始めました。その後何度も請願を繰り返すなか海軍の軍縮も好影響を与え、大正11年(1922)2月10日、勅令により徳山港の開港が決定されました。

さっそく同年6月に、港内約1万5千坪の埋め立てなどの計画を立てた徳山開港(株)が発足しました。急ぎ必要となる税関用地は町財政の関係から開港会社が造成して寄付することとなり、同年12月14日に熊野神社において地鎮祭、埋立地で船上での起工式を行ないました。翌日には児玉神社の遷座式が行われ、式の後、開港祝賀会が催されました。
第一号埋立地は大正15年(1926)に完成し、同年完成した税関支署は町営桟橋の基点近くに置かれました。翌昭和2年(1927)に税関支署の前に建立された開港記念碑が今も残っています。

大正期の徳山港
周南市美術博物館提供

その後、開港会社は熊野神社南の埋め立てに着手し、昭和8年(1933)頃完成しました。開港会社発足と同時期に、徳山では海軍燃料廠をはじめ民間企業が施設の拡張を進め、各会社の専用桟橋を用いた資材や製品の輸出入が急増していきました。また昭和4年(1929)に日本精蝋(株)が創業し、下松では昭和5年(1930)に日本石油精製(株)(現在のENEOS(株)下松事業所)が、昭和9年(1934)に東洋鋼鈑(株)が進出し、下松港の機能も拡張されていきました。富田では昭和10年(1935)に東洋曹達工業(株)が創業しています。

しかし、日中戦争が始まった後、昭和13年(1938)に徳山港は海軍燃料廠や大浦油槽所などの施設があるため、海軍要港に指定されて自由な開かれた港としての機能が停止されました。同様に、光地区においては昭和12年(1937)に海軍が新工廠建設を決定し、昭和15年(1940)に開庁した後はその規模を拡大しました。
昭和20年(1945)に徳山、下松、光はそれぞれ空襲を受け、海軍燃料廠や工場だけでなく、市街地も大きな被害を受けました。

戦後は海軍燃料廠が閉鎖されただけでなく、徳山下松港周辺の民間工場も電力や原材料不足などにより操業が困難な苦しい時期となりました。しかし、それぞれの工場が次第に生産力を回復させると、昭和23年(1948)に下松港を編入し、徳山下松港として再び開港され、港内の掃海が進んで航行安全が宣言されて現在に至ります。徳山では再開港を記念して燃料廠跡地などを会場とした徳山大博覧会が開催され、光では海軍工廠跡地に武田薬品工業(株)や八幡製鉄(株)(現在の日鉄ステンレス(株)山口製造所(光エリア))が進出し、その後、徳山の海軍燃料廠跡地に石油化学コンビナートの中核となる出光興産(株)が進出するなど、数多くの企業が創業・発展し、港の機能も強化されていきました。